feminist theory reading groupってか講読会

友人らと友に自主講読会。主に私の関心事に沿って開催を呼びかけた。一人じゃ読むのたいへんーって本も、みんなで読めば理解も深まり議論も盛り上がるというもの。
講読本はコレ↓

The Nation and Its Fragments: Colonial and Postcolonial Histories (Princeton Studies in Culture/Power/History)

The Nation and Its Fragments: Colonial and Postcolonial Histories (Princeton Studies in Culture/Power/History)

読んでよかったです。かなーり使えると思う。以下はメモ程度に。

1章は、アンダーソンのナショナリズム論(「想像の共同体」論)を出発点として、第三世界ナショナリズム論は、欧米のコピーではないと主張。2章以降で独自のインド(民族)ナショナリズム論の生成を歴史的に考察していく。本書で検討する領域として、チャタジーは次の2点を挙げる「言語」「家族」。
 言語:インド・ベンガル地域を事例に。植民地の言語は、宗主国の言語(英語)を排除する形で領域化していった。印刷資本主義(print capitalism)の二重の領域。ドラマ、小説、学校。
 家族:ヨーロッパではインドの宗教的実践、ことに女性の扱いに関連したさまざまな信仰を「野蛮」なものとして「伝統」領域におしこめ批判した。初期の「社会改革」においてもターゲットはこの領域(→特に第6章参照)。インドのネイティブ・ナショナリストもこの領域には注目し様々な言説を残した。ナショナリストの主張は、この「家族」領域に介入できるのは文化的アイデンティティの側面から「真正国家」のみと主張。ここから「伝統」とも「西洋」家族とも異なった新たな家父長制が誕生する。すなわち「近代的な新しい女性」。彼女は国家の伝統的な象徴を体現しているため、西洋的な女性であってはならない。
第6章では、2つ目の領域である「家族」に関する言説。19世紀インドでの「社会改革」。初期の争点は「女性の問題」であったにもかかわらず、半ば以降にはナショナリストの課題から「女性の問題」が消えてしまう。それはなぜか。
⇒「新しい女性」:神秘と貞操を兼ね備えた女性。性的なものが排除されている。
⇒「新しい女性」の出現によって、19世紀社会改革で唱えられた女性の救済は、男性ナショナリストにとっては達成した課題となったことから、課題自体から女性の問題が消えることになった。
⇒領域の隔離(inner/ outer, politic/ culture)、男女の隔離
文化の領域に注目して、植民地的近代における言説がどのように作用したのかあらわした点が、チャタジーの新しいところ。